物語
STORY
昭和四十一年、六歳の葉子は母・とみ子に連れられ、大津の家を出た。行き先も理由も知らされぬまま、母の手を握りしめて知らない街を転々とする日々。名古屋、浜松、そして小田原——母の愛人・正雄と三人での暮らしは、葉子にとって初めて「家族」を感じられる時間だった。
しかし三年後、父と祖母が小田原に現れる。引き裂かれた母の手。「お母ちゃあああん!」と叫ぶ声。それが、母を見た最後だった。
大津に戻された葉子は、「片岡葉子」から「杉浦葉子」へと名前を書き換えさせられる。三年間の記憶は「なかったこと」にされた。母の写真は一枚も残されず、「あの女」と呼ばれる存在になった母のことを、葉子は口にすることさえ許されなかった。
それから三十年——。
結婚し、「高橋葉子」となった彼女のもとに、一通の茶封筒が届く。差出人は「平塚市役所福祉部」。中には、母の死を告げる書類と、三十年分の想いが綴られた一冊の日記が入っていた。
会いたかった。ずっと会いたかった。でも、会いに行けなかった。
母も娘も、同じ場所で立ち止まっていた。そして永遠に、会えなくなった。
これは、届かなかった手紙の物語。
空白を抱えて生きた母と娘の、切なくも温かい再生の記録。